July192009
“私が思いついたのは、国政は激しく変化することを好む領域であり、地方政治は惰性が強くて、あまり変化を好まない領域だということである。
そういう社会の変化や民意の変化に対する「感度」の差が国政と地方自治のあいだにはある。
別に誰が決めたわけでもないが、そうなっている。
誰が決めたわけでもなくそうなっていることにはたいていの場合、深く考えないとわからない理由がひそんでいる。
メディアは地方自治も国政と同じようにめまぐるしく変化することを望んでいる。
「地方選挙は国政の前哨戦」という言い方をメディアが好むのは、そうである方が、そうでない場合より、メディアにもたらされる利益が多いからである。
現に、今度の東京都議選の開票速報の視聴率は、それが「政権末期の麻生内閣の命運を占うものだ」とメディアが言えば言うほど、高くなる(そして、CMの出稿数が増え、民放の財政は一息つく)。
メディア自身は気づいていないが、メディアは社会が激しく変化することから、そうでない場合よりも多くの利益を得るように制度設計されているので、無意識的にできるだけ多くの機会に「激しい変化」を望むようになる。
激しい変化がそれほど望まれていない場合にも望むようになる。
そのメディアそのもののバイアスをメディアは勘定に入れないということを勘定に入れた方がいい。
ここ数年、初当選のときにメディアを賑わした知事たちのほとんどは地方自治を離れた。
それも当然だと思う。
この人たちは「激しい変化」を地方にもたらすために鳴り物入りで登場したのであるが、地方自治が許容できる変化には限界があるからである。
どちらかといえば、国政は政治的幻想で動くが、地方政治は生活実感で動く。
幻想は振り幅が大きいが、生活実感は「食って、寝て、仕事して」であるから、変化の振り幅がない。
だから、メディアの支援を受けて地方自治に登場した知事たちは任期が2年ほど経った段階で、「もうメディアの注目を浴びるような変化を起こす余地がない」ことに気づく。
変えるだけのことは変えてしまったので、もうすることがないのである。” 内田樹の研究室 - 変化が好きなのキライなの (via yellowblog)
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